あらすじ
叔母のパン屋を手伝う杏奈は、閉店後の店内で、焼いた覚えのないパンを見つける。
紙袋には、亡き祖母の字で「ふみ様 午前零時十分」と書かれていた。
友人の千紘に相談する間にも、予約札の言葉と店の様子は少しずつ変わっていく。
やがて杏奈は、そのパンが七十年前から待ち続けていた約束の品だと知る。
杏奈
千紘、まだ起きてる?
千紘
起きてるよ。
パン屋、もう閉めたんじゃないの?
杏奈
閉めた。
オーブンも一時間前に切った。
千紘
どうしたの?
杏奈
さっきまで空だった台に、
焼きたての丸パンが置いてある。
千紘
叔母さんが残したんじゃない?
杏奈
紙袋に予約札がついてる。
「ふみ様 午前零時十分」って。
千紘
予約表には?
杏奈
ない。
それに、この字……おばあちゃんの字。
千紘
杏奈のおばあちゃんって……
杏奈
五年前に亡くなってる。
この店を始めた人。
千紘
叔母さんに電話して。
何か知ってるかも。
杏奈
出た。
「零時十分までは扉を開けないで」って。
千紘
知ってるじゃん。
そこから離れたほうがいいよ。
杏奈
待って。
今、入口のベルが鳴った。
千紘
誰か来たの?
杏奈
ガラスに、おばあさんが映ってる。
雨の中で、ずっと店を見てる。
千紘
予約した人じゃない?
でも、開けちゃだめだよ。
杏奈
外を直接見たら誰もいない。
でもガラスには、まだ映ってる。
千紘
杏奈、もう裏口から出よう。
杏奈
予約札の文字が変わった。
「ふみちゃんへ。お母さんは少し遅れます」
千紘
ふみって、子どもなの?
杏奈
古い棚から写真が落ちた。
店の前に、女の子とおばあちゃんがいる。
千紘
裏に何か書いてない?
杏奈
「昭和二十八年、大雨の夜。
母を待つふみちゃんに、パンを焼いた」
千紘
その子、助かったの?
杏奈
うん。翌朝、保護されたって。
お母さんは、戻らなかったみたい。
千紘
じゃあ、外のおばあさんが……
杏奈
零時十分になった。
袋が空で、床に濡れた足跡が二人分ある。
小さな足跡と、おばあさんの足跡。
